辺見庸 著『もの食う人びと』感想
紙鶴です。辺見庸 著の『もの食う人びと』(角川文庫)を読みました。
人は今、何をどう食べ、どれほど食えないのか。人々の苛烈な「食」への交わりを訴えた連載時から大反響を呼んだ劇的なルポルタージュ。文庫化に際し、新たに書き下ろし独白とカラー写真を収録。
1992年末に日本を発ち、世界を旅しながら「食」と向き合った著者の日記。「事実は小説よりも奇なり」とは言ったもので、これがフィクションだったらどれだけよかっただろうと思ってしまった。そんな読後。
Ⅰ
東南アジア。
生きている人の数だけ食べる人がいる。1日3食しっかり食べたとして、1年だけでも3食×365日=1095食食べてることになる。間食を含めるともっと多くなる。それだけ人間は食べているのだ。食べなければ死んでしまうから。
食えないと死ぬ。食べ物を捨てている今日の日本では忘れてしまっているくらいではないか。衣食住の中で圧倒的優先度を誇る食。着るものがなくても、住む場所がなくても死なない。しかし、食べるものがないと死ぬ。何が何でも食わねばならない。美味いとか、不味いとか、栄養が豊富とか、不衛生とか、そんなことはどうでもいい。まずは食べないと。たとえそれが残飯だとしても、人肉だとしても。
食べないと死ぬのだから。そう耳元で何度も何度も怒鳴られているような章だった。生きるということは元来必死なのだと感じた。読んで字の如く。死にものぐるいで食う。
食とは生と死に直結する、というごく当たり前の道理を、私は何日もかけてダッカで確かめただけのことなのかもしれない。(P20)
Ⅱ
ヨーロッパ。
政治と宗教と食。それぞれが影響し合ったり、全く関係なかったりする章。個人的には後者の話が好き。宗教も政治も生命維持の前には何の腹の足しにもならないのだ。
食べて生きるほうが、民族、宗教を誇るよりだいじなのだ。(P143)
Ⅲ
アフリカとサウジアラビア。
飢餓と紛争。ここでの食事は生命維持としての意味合いが強く感じる。そもそも食事と言えるのかどうかすら怪しい。章が始まってすぐのこの文章が全てを物語っている。
ここでは食の風景がほかに押しつぶされて、壊されているからだ。(P182)
『バナナ畑に星が降る』が本書TOP3に入るくらい好き。読んでくれの気持ち。「偽善を悩む余裕なんかない」、胸に刺さる。
Ⅳ
ロシア。
チェルノブイリ原発の話が印象的だった。だいじょうぶだいじょうぶと言いながら放射能汚染食品を食べる人たち。食品表示がちゃんとなされている日本ですら、自分たちが食べているものに何が入っているのか気にしない。食えること、それ自体が重要でそれ以外の要素は取るに足らないことなのかもしれない。
Ⅴ
朝鮮半島。
従軍慰安婦の話。最後の最後で殴られるとは思っても見なかった。無知を恥じた。
自分が生まれる前の話であるものの、2020年現在はこの頃より好転しているのだろうか。食べられるのが当たり前の世界しかしらない自分は所詮井の中の蛙だったのだと思い知らされた。時代を選ばない良書と出会えて良かった。
映画をはじめ、自分のノンフィクション好きに確信が持ててきたので、ノンフィクションものを漁るのもいいかもしれない。